平家の隆盛で創建・櫛田神社、源氏の隆盛で興隆・住吉神社

平清盛座像/京都・六波羅蜜寺

NHKで放映中の大河ドラマ・平清盛の視聴率の高低が話題になっています。

 

9月9日には、「わが都、福原」のタイトルで35回目の放送が行われ、兄・清盛が病に倒れたことを聞き、大宰大弐として博多・太宰府に赴任していた弟・頼盛が急ぎ都に上ってきたシーンや、福原、現在の神戸を整備し街を作る構想を例えるのに、「ワシは都の隣に博多を作る」という台詞を清盛に言わせるシーンなどがありました。

 

その博多には、 視聴率の高下、宜しく、清盛を棟梁とした平氏政権と関わり合い、その浮沈に大きく左右された神社が二社鎮座します。

 

博多祇園山笠で全国的に知られる博多総鎮守・櫛田神社と、筑前國一宮・住吉神社です。

 

櫛田神社/山笠櫛田入り図/奥村玉蘭「筑前名所図絵」(江戸時代中期)

櫛田神社は、元々、平家の蔵が立ち並んでいた敷地に鎮座したもので、清盛が全盛を極め、博多を日宋交易の中継点として掌握した時期に、祖父・平正盛の時代からの平家の九州における拠点であった肥前神崎の櫛田神社を招き創建されたと言われています。

 

壇ノ浦の合戦で、源氏との最期の決戦を向かえる直前に、平家一門と伴にあった8歳の幼帝・安徳帝を櫛田神社へと隠し、お守りする計画について小説「新平家物語」の中で吉川英治がふれています。

 

櫛田神社は、平家の隆盛とともに博多の中心に創                           建された神社なのです。

 

伝・源頼朝像/京都・神護寺

一方、清盛が太政大臣となり、権勢の絶頂に達した治承三年(1179)に、筑前國一宮・住吉神社の神官3名が伊豆に流罪になったとの記録があります。

 

流罪は、住吉神社と平家政権との間に何らかの政治的対立があってのことと思われるのですが、その後、住吉神社の神官は、平家政権を倒すことになる源頼朝の側近くに使え、軍中での神事を勤めたり、占術を行なったりしています。また、頼朝の妻・北条政子の警護役をやらされたりもしています。

 

平家が滅びると、住吉神社神官家は源頼朝が開いた鎌倉幕府の神官身分のご家人として取り立てられ安定しました。

 

住吉神社の方は、平家の隆盛とともに辛酸をなめさせられ、源氏が興り、平家が滅びるとともに、博多、そして筑前國の鎮守としての対面を立て直したのでした。

 

 

 

住吉神社図/奥村玉蘭「筑前名所図絵」/江戸時代中期

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